薫ちゃん卒業後、右京さんの一幕。


「おはようございます」
 挨拶の言葉を発しながら部屋に入る。
 人が居ても居なくても、挨拶とともに入室するのが、右京のここ数年の習いだった。
 入口の脇、自分の名札をひっくり返した。
 橘右京と書かれた名札は、不在を意味する赤から在席を意味する黒へと変わる。
 名札を返した後、何時もならコートや上着を脱ぐ動作と繋がるのが右京の常だったが、今日は違った。
 暫く、その場に佇む。
 己の名札に視線をやりながら。
 いや正確には、己の名札の横に視線を向けたまま。
 そこには何もない。
 何も誰の名札もかかってない、釘だけがある場所。
 何も無くなった空間をただ見つめる。
「暇か」
 聞き慣れた声とセリフが背中にかかり、右京は動きを再開した。
「そうですねぇ、いつもどおりに暇ですね」
 言葉を返しながら、コートをハンガーにかけ、その後はいつものごとく紅茶の準備を始めた。
「そっか、暇か」
 ティーポットに茶葉をすくい、次にお湯を注ぐ。
 急かず慌てず茶葉が十分に蒸らされるのを待った。
「なんだな。人一人減っただけなのに、ここも随分広くなったな」
「そうなのですか?課長は一人でこの部屋に留守番と称して入り浸っていたことも多い。この部屋に 二人で居るのを広く感じると言うのは、少しおかしなことではないでしょうか」
「そんなこと言っても、広く感じるんだから仕方がないだろ。なんつーかだな、一人だと感じないんだが、お前さんと二人だと感じるんだよ」
 ふぅ、と小さくついた溜め息は寂しげだ。
 ポットからカップへ紅茶を注ぐ。
 喉を潤す前に、まずは馨りを楽しむ。
 紅茶中毒とも言える右京にとって、大事な時間でもあった。
「おや?」
「どうしたよ」
「いえ、馨りがいつもとは違う気がしましてね」
 そう言い紅茶を喉に流した後、首を傾げる。
 納得いかないといった雰囲気だ。
「紅茶容れるの失敗したか」
「いつも通りに淹れたのですがねぇ。もしかして茶葉が湿気たのかもしれません。新しい紅茶に変えましょうか」
 まだ半分以上残っている缶を眺めながら右京は呟いた。



「警部殿、捜査には首を突っ込まないで頂きたいと、何度言ったらわかるのでしょうか」
 捜査一課の面々が、右京へと要望の形をとった文句を告げた。
「すみませんねぇ。気になったことがありましたので」
 いつものごとく、殺人事件に首を突っ込んだ右京は、捜査一課の面々からの文句を受け流す。
「それより事件のことなんですが、被害者にお子さんはいなかったのでしょうか」
「被害者は独身で、過去に離婚の経験はあるみたいですが、子供は居なかったですよ」
 年若い芹沢が、いつものごとくぺらぺらと答える。
「お前、質問には答えるなといつも伊丹に怒られてるだろうが」
 三浦は呆れた声を滲ませた。
 いつもなら伊丹の怒鳴り声が飛ぶとところだ。
「そういえば伊丹刑事の姿が見えませんね。捜査か何かで別行動ですか」
 捜査一課の面々は、三人一緒に行動する姿を見慣れている右京は不思議に思い、問い掛ける。
「伊丹先輩はあっちですよ」
 言われた方向を見ると、伊丹の姿が見えた。
 立っているのは課の入口すぐ近くだった。どこか暇を持て余したように携帯を弄っている。
「亀山先輩がいない特命係の部屋に入るのが嫌みたいです。口に出して言いませんけど」
「そうですか」
「でもなんか分かる気がする。特命係に来たのに亀山先輩が居ないの、なんか変な感じですよ。 さっきの取り調べも警部一人で来た時、なんか違和感があったんですよね」
「僕と亀山君は別行動で動くことも珍しくありませんでした。そういう意味で僕一人の姿に違和感を感じるのは少しおかしい気がしますね。亀山君が辞めたという思いがあるから、違和感を感じるだけでしょう。いわば思い込みの類かと思われます」
「そうかもしれませんが」
 さらさらと澱みなく返って来る言葉に、芹沢は不満げな表情を浮かべた。
「亀山先輩が居なくなって、寂しいとか捜査がやり辛くなったとか無いんですか」
「特には。僕は誰かと一緒でないと行動できないといった質ではありません」
「むしろ誰かと一緒の方が、行動に支障が出るタイプですね、警部殿は」
「そうですね。あまり人付き合いがいい方ではありませんから」
「嫌味です」
「わかってます。気にしてないだけです」
 三浦と右京のやりとりに、芹沢は呟いた。
「ほんと、警部はいつもとかわんないですね」
声には苛立たしさが滲んでいた。
「冷たいですよ、警部は。だって亀山先輩とは八年も組んで仕事をしてきたんでしょう。なのにその亀山先輩が居なくなったのに何も思わないんですか!?」
「何も思って居ないことはないですよ」
「じゃあ、どう感じてるんですか」
「新しい人生を歩み始めた彼に、充実した時間が訪れてることを望みます」
「なんですかそれ」
 右京の答えに納得出来ない芹沢に対し、眼鏡越しに視線を向ける。
「仕事のパートナーは仲良しごっこの相手ではありません。寂しく感じろというのは些か偏った意見だと思いますが」
「もういいです!」
 芹沢は腹を立て、机を乱暴に叩くと特命係の部屋を出て行った。
「おい、芹沢!」
 三浦はやれやれといった感じに溜め息を落とすと、続いて出入り口へ足を向けた。
「確かに警部殿がおっしゃる通り、仕事のパートナーは仲良しごっこの相手じゃありません。ですが、意識していたライバルが、仲の良かった先輩が、息のあった相棒が、辞めてしまったことを寂しく感じたり、何か物足りなくないなったり、そう感じるのは人として普通の感情じゃないでしょうかね」
「僕にどんな答えを期待しているのでしょうか」
「いえ、ただの一人言です」
 三浦が去った後、右京はティーカップに口をつけかけて止めた。
 カップの中の紅茶は既に冷えていた。
 適温の紅茶が一番美味しいが、良い紅茶は冷えていても美味しく飲めるものだ。
「亀山君が自分の進む道を見つけたことは、喜ぶべき事柄でしょう。窓際の部署で燻っているよりね」
 だが冷めた紅茶を飲む気がせず、淹れ直す。
 いつもの香しい馨りが楽しみたい。そう思って淹れなおした紅茶に口をつけたが、右京は軽く溜息をついた。
「やはり馨りが足りないです。茶葉は新しくしたのですが、おかしいですねぇ」
 いつもの紅茶を味わえないことを残念に思い、呟いた。
 誰に聞かれることもなく、消えてゆく言葉を、呟いた。


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右京さんは薫ちゃんが窓際で燻っているより、やりたいことをちゃんとやれている道を歩んでいることを、本気で喜ばしいことだと思ってると思います。
寂しいとか思わないで、今まで通りの日常を過ごして。
でも、自覚のないところで、ぽっかりとどこかに透き間風を感じていて、それを全く気づけないまま寂しさを感じてるんじゃないか、感じて欲しい、と思ってしまうファン心理からつらつらと。